百錬自得

 磐高剣道場には「百錬自得」の額が掲げられています。この額は旧制中学の時代に磐高で剣道の指導にあたられた小沢丘先生が揮毫されたものです。小沢先生は、その後も剣道の道を究められ、後に剣道範士九段となられました。

 この道場で稽古された皆さんは、いつもこの額を仰ぎ、苦しい稽古にも耐えられたのではないでしょうか。

 このページでは、剣道の修業に励む方々に、少しでも役立つような情報を提供し、百錬自得への手助けができればと思っています。

百錬自得

一般 F川先生、S木先生、S井先生、K内先生、M川、S藤

高校生 磐城高校剣道部員

今日と来週は、T屋先先生はお休みです。

先生の指導を受けられませんが、いつも以上に気合を入れて稽古していました。

面にいって踏み込んだその時、右足に違和感を感じました。

どうやらアキレス腱を痛めたみたいで、稽古を中断しました。

しばらく稽古できなくなる不安が頭をよぎりました。

来週稽古できればと思うばかりいです。


 いきなりだがソクラテスの有名な「無知の知」の話。
 

「彼らは、私と同じだ、善美について知らない。 ただ、彼らはそれを知らないのに知っているつもりでいる、私は知っているとは思っていない。そこが、違いだ。」

 彼らとは、当時のギリシャの知識層の人たち。
ソクラテスは無知であることをその知識層に訪ね歩き、この結論にいたった。


  この話は、一般的には 「謙虚に他人の話にも傾聴せよ」という教訓として理解されている。しかし見方を変えれば、自分自身について客観的にみることのできる人とできない人がいて、できる人だけが真理を追求できるということを教えているのではないか。


  私の話で恐縮だが、先日自分の思うような稽古ができず、帰り道、心が沈んだ。 

つくづく剣道下手だなあと。

 その時ふとこのソクラテスのことが浮かんだ。


  人は調子のいい時はなかなか自分を顧みないものだ。
ところが、調子を崩すとなぜうまくいかないかさんざん悩む。実はこの時こそ本気で自分自身と向き合う絶好の機会なのだ。 ソクラテス流に言えば、剣道の真理を追求できる資格を得たことになる。


  稽古がうまくいかないことは、決してマイナスのことばかりではない。
今ある剣道を更なる高みに変化させていくためには、むしろ必要な時間だ。あとで考えればプラスの面のほうが多い。悲観せず「プラス思考」で考えることが何より大切だ。
格言にもあるではないか。調子のいいときこそ自分を見つめ、悪いときこそありがたいと思え。 

「打って反省打たれて感謝」だ。 

剣道で「色」を意識したことはあるだろうか。

「色」とは相手に気配として伝わるものと思われがちだが、実はそういう感覚的なものではなく、技術的なものである。

ここでいう「色」とは、ある動作の直前に現れる予備動作のことである。意識してこれを行う場合もあれば無意識で行う場合もある。

たとえばボールを遠くに投げる時、いきなりボールを手から離すことはしないだろう。多くの人は腕を後ろに振り上げ、反動をつけるはずである。このふり上げる動作のことを「色」という。

剣道では打とう打とうと心に浮かんだ時にこの「色」が現れる。ただ、ボールを投げる時とは違い、ほんのわずかな一瞬の動きである。そのせいか、本人も気づいてないこともある。

具体的には左足をわずかに引いたり、竹刀を下に下げたり、目で打つところを見たり、人によって様々である。しかし、本人は気づいてなくとも、相手には気配として確実に伝わっている。

剣道における「色」で問題なのは、実はこの「色」の有無ではなく、意識しているかしてないかということである。

意図的に「色」を出したり、消したりすることは、練習で可能である。

それができると、「色」でフェイントをかけたり、居着かせたり、出頭を打てたり、相手を自在に制御可能となる。つまり意識して「色」を使うことが重要なのだ。

「色」を感覚で捉えるのではなく、打突の好機を作り出せる魔法の技術として使いこなすこと。そうできれば今まで見えなかった相手の心の動きも意識して捉えることができてくるのではないだろうか。

5月26日、作家の津本陽さんが亡くなった。

織田信長を描いた「下天は夢か」などの壮大な時代小説を描く一方で、津本さん自身、剣道経験者ということで、剣道に関する作品も数多く残された。そんななかでも、私が特に興味を持って読んだ作品は、昔の侍がどのような剣技を使ったかというところに視点をおいて書かれた作品である。

明治期の剣道の黎明期を描いた「明治撃剣会」、薩摩示現流にまつわる小話をまとめた「薩南示現流 」、剣豪の真剣での立会をリアルに描いた短編集「人斬り剣奥義」などどれもリアルに剣術を再現してくれた。中でも「人斬り剣奥儀」に納められている「肩の砕き」という作品は強く心に残っている。


この作品の主人公は江戸時代の剣豪、白井亨(しらいとおる)という人である。同時代の剣豪の千葉周作らに比べれると知名度は劣るが、逸話も残るほどの剣士である。

そんな彼の若き修行時代からその剣の奥義を極めるまでの半生を短く綴った作品である。題名の「肩の砕き」は、結末がわかってしまって読む意欲を失わせては申し訳ないので詳しくは述べないが、剣の奥儀を極めるためのキーワードである。


この作品では、剣の道を志した白井が良き指導者(作品では兄弟子の寺田五郎右衛門)に導かれ、本道へ歩んでいく姿が描かれている。私はこの作品で白井亨という人物を知るとともに、剣の道にとって師ほど大切なものはないと教えられた。


断片的な昔の資料から、その剣さばきを現代に生きているように描いてくれた津本陽さん。心より感謝いたします。津本陽さんのご冥福を心よりお祈りします。



木曜会では、学生と稽古する機会が多い。

下は小学生から中学生、高校生、時には大学生と稽古できる稽古会はなかなかない。ありがたいことだと思っている。


剣道では、上位者が下位者に稽古の感想をのべる伝統がある。感想は、良かった点、悪かった点、またこうした方がいいなどの助言である。

私もそういうアドバイスをする機会があるが、学生によくするアドバイスに「誰でもできることは必ずやりなさい」というのが多い。

早く打つ、うまく打つことは、個人差がありできる人もいればできない人もいる。しかし、相手と気持ちを合わせて礼をする。打突したあとは相手よりも先に構えるといったことは、心がければだれでもできることである。

「蹲踞から立ち上がったら一歩前」にでるという教えも心がければだれでもできる教えである。


当たり前すぎて今更こんな教えかと怒られそうだが、実はこれも心がけていないと、つい思わぬ行動をしてしまうものだ。

試合や昇段審査などの緊張した場面では、人はつい右に回ったり、下がったりしてしまう。

実際私も七段審査を受審する数日前の模擬立会で失敗したことがある。


その立会は、いつも指導いただいている吉崎先生に批評していただいた時である。お相手は会川君。

蹲踞から立ち上がり、ふと攻め気を感じた。「あっ」と思った瞬間にはすでに右に回ってしまっていた。気魄に押されて動揺したからだと思う。

後で、先生より「蹲踞から立ち上がって第一歩が右にまわっている」と指摘された。


数日後の七段審査はこんな失敗もせず無事やり遂げられたが、審査直前まで情けなくて恥ずかしい思いでいっぱいだった。


日頃できると思っていることでも、緊張した場では、いつもとは違う行動をしてしまう。肝に銘じて、そうならないよう繰り返し意識して稽古するようにしている。


みなさんも私のようにならないよう事前確認を忘れずに。


理想的な構えはどうあるべきかを考えてみよう。
なぜかというと、八段の先生方の構えは、皆美しい。美しいだけでなくスキがない。しかもお相手への強い圧力となっている。

ああいう構えはだれでも憧れる。

そこで、皆さんの参考になるように、私が今まで集めた構えの注意点について少し披露したいと思う。


まず頭。上から紐で吊り上げられて、ストンと落とされたように意識する。
耳は肩に乗るように意識する。(長谷川弘一先生の御指摘)


背筋

背筋は肩甲骨を出すように意識する。


ヘソ

ヘソが上を向くように丹田を意識する。

打突の際に前傾しすぎないように、ヘソをお相手のヘソに近づけるように右足をだす。


左手

左手は、親指の付け根がヘソを乗せる位置に置く。


竹刀

剣線の延長は、お相手の右目(こちらから見て)につける。

竹刀は、お相手の竹刀の上になるように上げる。

握りは、力は入れず、指と竹刀の柄革の間に空気が入らないくらいに握る。


足は「ひかがみ」が曲がらないように意識する。

左足のかかとが上がりすぎないように、また重心が左足と右足に均等にのるように意識する。

全体としては、上虚下実。肩の力をぬき、下半身の動きを意識する。


以上「頭」から「足」にいたる要点を書いた。どれも諸先生方が披露した記事の受け売りだ。しかし、長年の修行に裏付けられた教えがほとんどなので、内容は本物である。

どれかひとつでもみなさんの参考になれば光栄だ。




「秋刀魚のフライ」のことではない。(笑)

「三摩之位」のことである。「三磨の位」と書いてある書籍もある。

この教えは柳生新陰流の口伝書「終始不捨書」に書かれている修行の要諦である。


すなわち「三摩」とは「習い・稽古・工夫」の三つの修行過程を指す。「位」は段などと同じ意味で、修行の段階を意味している。

つまり、剣の修行過程には三つの段階があるというのである。

具体的には、「習いの段階」は疑いを持たず忠実に習う。「稽古の段階」はできるまで諦めず徹底して稽古する。「工夫の段階」は自分の工夫をとりいれてより技の習熟度を高めることを指している。

この三つの段階が円上を切れ目なくぐるぐると周り繰り返すことで、いつのまにか剣の奥義に到達できるというのである。


ところで、これと似た言葉に「守破離」という教えがある。言わんとすることは同じだが、イメージが若干異なる。「守破離」が直線上を右上がり移動していくイメージに対し、「三摩の位」は、円上をぐるぐる登るイメージである。さながら螺旋階段を登っていくような感じである。


この教えの要点は、今の自分がどの段階にあるのかを考えることである。

つまり、今自分がどの段階にいるのかが明確になれば、いま何をなすべきかも明確になる。それはとりもなおさず上達への最短距離ということだ。



時期は六段受審前頃だったと思う。無地の手ぬぐいを買い求め、自分なりの課題を箇条書きにし(下写真)、面をつける時に確認できるようにしていた。

手拭いには、先生方からの注意点、本や雑誌から得た知識をその都度自署していた。自分なりの、上達のための工夫だった。

手拭いに書き入れた教えの中でも、これはすごいなと思っていたのが、これから紹介する高野茂義先生の攻めについての一文である。


「先に攻め、相手をおびき寄せ、先をおこさせ、先に打たせ、その先を打て」


剣道雑誌にのっていたものだと思う。

高野茂義先生は、昭和初期剣道界の第一人者である高野佐三郎先生の養子で、剣道家として名を馳せた。昭和の剣聖と謳われた父、佐三郎の養子に見込まれただけあって、その剣の腕前は当時も高く評価されていた。その高野先生が遺した極意である。わかりやすい表現ながら、奥が深い。


若い時は、誰でも打たせずに相手よりも早く先に打ちたいと思うものである。しかし、この一文では、相手に先に打たせることに重点を置いている。これを読んだ時まだ若かった自分は驚かされた。その瞬間、私の剣道観が変わったように思う。



「先に攻め、相手を崩して、相手をおびき寄せ、先をおこさせ、先に打たせ、その先を打て」

先生の教えに、大胆にも「相手を崩して」という一節を独断で付け加え、今でも技前の心得としている。

もし相手より先に打とうという欲心があったら、是非思い出して欲しい。